【史跡・世界遺産】 原爆ドーム(旧広島県産業奨励館) (広島県 広島市)
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この建物は、広島県の特産品を展示するための広島県物産陳列館(のちに広島県産業奨励館に改称)として、大正6年(1915年)に建てられました。鉄骨レンガ造、三階建の洋風建築で、当時木造二階建ての建物がほとんどだった広島市街において、広島名所の一つに数えられました。
昭和20年(1945年)8月6日、この建物の南東およそ100m地点の上空600mで、アメリカ合衆国の爆撃機が投下した一発の原子爆弾が炸裂しました。それにより、半径約2kmの範囲が一瞬にして廃墟と化し、20万人を超える人々が死亡しました。
戦後、建物の残骸は、ドーム部分を形作っていた鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。建物を保存するか、悲惨な体験を思い出さないように取り壊すか、戦後長い間議論されてきましたが、昭和41年(1966年)、広島市議会は原爆ドームを核兵器廃絶と平和希求の象徴として保存する決議を採択し、被爆後初めて保存のための工事が行われました。平成4年(1992年)に日本が世界遺産条約に加盟すると、アウシュヴィッツ強制収容所などと同様に、いわゆる「負の遺産」として世界遺産に登録させようとする声が上がり始めました。広島市は登録を推薦するよう国に求めましたが、当時国は、登録するには文化財(史跡)指定が必要で、それには歴史が浅い、として難色を示していました。その陰には、アメリカや中国、韓国との関係悪化を懸念する政治的配慮が働いたのではないかという見方もあります。しかしこれが結果的には登録に向けての全国的な署名運動のきっかけとなり、165万名に及ぶ署名が国会で採択されるに至り、文部省は史跡の指定基準を改正し、平成7年(1995年)に原爆ドームを史跡に指定しました。そして同年中に日本政府は世界遺産委員会に原爆ドームを登録するよう推薦。翌平成8年(1996年)、"Hiroshima Peace Memorial(Genbaku Dome)"という名称で世界文化遺産に登録されました。適用された登録基準は以下の通りです。
「(vi) 顕著で普遍的な価値をもつ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または明白な関連があること(ただし、この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)」
原爆ドームは他の負の遺産と同様、例外的に、基準 vi が単独で用いられています。
原爆ドーム フォトギャラリー(16MP・42枚)
最寄りの駅から徒歩
広島電鉄(路面電車) 原爆ドーム前 停留所から、徒歩1分。
広島電鉄では全国共通交通系ICカード利用可能。
乗り方・運賃の払い方は普通の路線バスと同じで、後ろ乗り、前降り。
バス
各社 原爆ドーム前 バス停(地図・黄1)から、徒歩1分。
複数のバス会社の路線がこのバス停を経由していますが、意外と運行頻度は多くなく、1時間に1〜2本です。
時刻・料金・路線検索は、各種乗り換え案内アプリやGoogle Map ルート案内機能が使えます。
駐車場
施設付属の見学者用駐車場はありません。
(観光バス用はあります)
半径300m以内に、多数の時間貸駐車場があります。
NAVITIME 駐車場検索ページにて、「原爆ドーム」で検索してください。
手前の川は、元安川(もとやすがわ)。
原爆ドームの周辺は、建物の保存や危険防止のために柵で囲まれ、建物に触れられるほど接近したり、中に入ることはできません。
柵の外からなら、いつでも見学できます。
夜間はほのかにライトアップされているようですが、時間などの詳細情報は見つけられませんでした。
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訪れたのは、桜が散り始めた頃でした。
破壊された時の状態を維持するように、保存されています。
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原爆ドーム周辺は、日本人よりも外国人観光客の方が多かった印象です。
原爆ドームと、原子爆弾投下の目標となった相生橋(あいおいばし)。上から見るとT字の形をしているのが特徴です。
広島市による石碑。
世界遺産登録の記念碑。
元安川を挟んだ原爆ドームの対岸にある平和記念公園も、外国人の方が多数いました。
原爆の子。
原爆ドーム フォトギャラリー(16MP・42枚)
文化財分布マップ
(全国の国宝、重要文化財建造物の詳細位置をプロットしています)
このページは
ユネスコ公式サイト(長い英語の説明文は、そのほとんどが建物の保存についての記述であり、原子爆弾投下やその被害などについては一切書かれていません)
広島市公式サイト
日本ユネスコ協会連盟
文化庁 国指定文化財等データベース
などの記述を参照しています。
この建物は、広島県の特産品を展示するための広島県物産陳列館(のちに広島県産業奨励館に改称)として、大正6年(1915年)に建てられました。鉄骨レンガ造、三階建の洋風建築で、当時木造二階建ての建物がほとんどだった広島市街において、広島名所の一つに数えられました。
昭和20年(1945年)8月6日、この建物の南東およそ100m地点の上空600mで、アメリカ合衆国の爆撃機が投下した一発の原子爆弾が炸裂しました。それにより、半径約2kmの範囲が一瞬にして廃墟と化し、20万人を超える人々が死亡しました。
戦後、建物の残骸は、ドーム部分を形作っていた鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。建物を保存するか、悲惨な体験を思い出さないように取り壊すか、戦後長い間議論されてきましたが、昭和41年(1966年)、広島市議会は原爆ドームを核兵器廃絶と平和希求の象徴として保存する決議を採択し、被爆後初めて保存のための工事が行われました。平成4年(1992年)に日本が世界遺産条約に加盟すると、アウシュヴィッツ強制収容所などと同様に、いわゆる「負の遺産」として世界遺産に登録させようとする声が上がり始めました。広島市は登録を推薦するよう国に求めましたが、当時国は、登録するには文化財(史跡)指定が必要で、それには歴史が浅い、として難色を示していました。その陰には、アメリカや中国、韓国との関係悪化を懸念する政治的配慮が働いたのではないかという見方もあります。しかしこれが結果的には登録に向けての全国的な署名運動のきっかけとなり、165万名に及ぶ署名が国会で採択されるに至り、文部省は史跡の指定基準を改正し、平成7年(1995年)に原爆ドームを史跡に指定しました。そして同年中に日本政府は世界遺産委員会に原爆ドームを登録するよう推薦。翌平成8年(1996年)、"Hiroshima Peace Memorial(Genbaku Dome)"という名称で世界文化遺産に登録されました。適用された登録基準は以下の通りです。
「(vi) 顕著で普遍的な価値をもつ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または明白な関連があること(ただし、この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)」
原爆ドームは他の負の遺産と同様、例外的に、基準 vi が単独で用いられています。
原爆ドーム フォトギャラリー(16MP・42枚)
アクセス
原爆ドームは、黄色3
スマートフォンはこちらのマップへ
最寄りの駅から徒歩
広島電鉄(路面電車) 原爆ドーム前 停留所から、徒歩1分。
広島電鉄では全国共通交通系ICカード利用可能。
乗り方・運賃の払い方は普通の路線バスと同じで、後ろ乗り、前降り。
バス
各社 原爆ドーム前 バス停(地図・黄1)から、徒歩1分。
複数のバス会社の路線がこのバス停を経由していますが、意外と運行頻度は多くなく、1時間に1〜2本です。
時刻・料金・路線検索は、各種乗り換え案内アプリやGoogle Map ルート案内機能が使えます。
駐車場
施設付属の見学者用駐車場はありません。
(観光バス用はあります)
半径300m以内に、多数の時間貸駐車場があります。
NAVITIME 駐車場検索ページにて、「原爆ドーム」で検索してください。
手前の川は、元安川(もとやすがわ)。
見学のしかた
原爆ドームの周辺は、建物の保存や危険防止のために柵で囲まれ、建物に触れられるほど接近したり、中に入ることはできません。
柵の外からなら、いつでも見学できます。
夜間はほのかにライトアップされているようですが、時間などの詳細情報は見つけられませんでした。
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訪れたのは、桜が散り始めた頃でした。
破壊された時の状態を維持するように、保存されています。
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原爆ドーム周辺は、日本人よりも外国人観光客の方が多かった印象です。
原爆ドームと、原子爆弾投下の目標となった相生橋(あいおいばし)。上から見るとT字の形をしているのが特徴です。
広島市による石碑。
世界遺産登録の記念碑。
元安川を挟んだ原爆ドームの対岸にある平和記念公園も、外国人の方が多数いました。
原爆の子。
原爆ドーム フォトギャラリー(16MP・42枚)
文化財分布マップ
(全国の国宝、重要文化財建造物の詳細位置をプロットしています)
このページは
ユネスコ公式サイト(長い英語の説明文は、そのほとんどが建物の保存についての記述であり、原子爆弾投下やその被害などについては一切書かれていません)
広島市公式サイト
日本ユネスコ協会連盟
文化庁 国指定文化財等データベース
などの記述を参照しています。
by h9w457y8i
| 2019-07-30 10:57
| 広島
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