【重要文化財】 碓氷峠鉄道施設 第三橋梁 (めがね橋) 概要
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碓氷峠鉄道施設
第三橋梁 ( 通称「めがね橋」)
だいさんきょうりょう
明治26年(1893年)、竣工。*1
煉瓦造
国指定重要文化財 平成6年(1994年)、指定。
碓氷峠鉄道施設のメインと言える建造物が、この第三橋梁、通称「めがね橋」である。
長さ91m、高さ31m。碓氷線最大、そして国内でも最大のレンガアーチ橋である。使われたレンガは202万8千個で、深谷、川口から運ばれた。明治25年(1892年)4月から基礎工事を始め、9月には橋脚が完成し、その後アーチ部分のレンガを積み始め、同年12月には完成したと言われている。明治27年(1894年)の地震で橋脚の一部にひびが入ったため、その後2年間で補強工事が行われた。そのため、アーチリングも太くなり、当初のスマートさはなくなったものの、その後の重い列車の通過にも耐えられるようになった。
第一橋台*2 (横川側=下画像右側の橋台)は、地盤が固く簡単な基礎で済んだが、第二橋台(軽井沢側=下画像左側の橋台)となるべきところは地盤が軟らかかったため、その部分のずっと下にトンネルを掘り、固い地盤を見つけ、その上に楕円状のレンガの基礎を積み上げて橋台にしたといわれている。第三橋脚(軽井沢側)も同じように地中深く橋脚が埋められている。橋脚には細長い石が縦に入っており(強度を強めるため。現在の鉄筋の代わり)、橋梁の上部(水抜き穴の上部)には軽量化のため、レンガくずや石炭ガラで埋められていると言われている。

設計は主に英国人のチャールズ・アセントン、ワットリー・パウネルが担当したが、日本人では鉄道院技師の古川晴一が担当した。古川はその後、明治42年(1909年)に山陰本線の余部鉄橋の設計も行っている。*3
現在は遊歩道「アプトの道」として改修され、橋の上を徒歩で渡ることができる。詳細は見学要領(工事中)参照。
第三橋梁フォトギャラリーはこちら。

*1 文化庁文化遺産データベースより。ただし、現地案内看板によると、前年の明治25年末に既に竣工していたようにも読める。
*2 用語解説参照。
*3 現地案内看板より。フォトギャラリーに画像あり。
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碓氷峠鉄道施設
第三橋梁 ( 通称「めがね橋」)
だいさんきょうりょう
明治26年(1893年)、竣工。*1
煉瓦造
国指定重要文化財 平成6年(1994年)、指定。
碓氷峠鉄道施設のメインと言える建造物が、この第三橋梁、通称「めがね橋」である。
長さ91m、高さ31m。碓氷線最大、そして国内でも最大のレンガアーチ橋である。使われたレンガは202万8千個で、深谷、川口から運ばれた。明治25年(1892年)4月から基礎工事を始め、9月には橋脚が完成し、その後アーチ部分のレンガを積み始め、同年12月には完成したと言われている。明治27年(1894年)の地震で橋脚の一部にひびが入ったため、その後2年間で補強工事が行われた。そのため、アーチリングも太くなり、当初のスマートさはなくなったものの、その後の重い列車の通過にも耐えられるようになった。
第一橋台*2 (横川側=下画像右側の橋台)は、地盤が固く簡単な基礎で済んだが、第二橋台(軽井沢側=下画像左側の橋台)となるべきところは地盤が軟らかかったため、その部分のずっと下にトンネルを掘り、固い地盤を見つけ、その上に楕円状のレンガの基礎を積み上げて橋台にしたといわれている。第三橋脚(軽井沢側)も同じように地中深く橋脚が埋められている。橋脚には細長い石が縦に入っており(強度を強めるため。現在の鉄筋の代わり)、橋梁の上部(水抜き穴の上部)には軽量化のため、レンガくずや石炭ガラで埋められていると言われている。

設計は主に英国人のチャールズ・アセントン、ワットリー・パウネルが担当したが、日本人では鉄道院技師の古川晴一が担当した。古川はその後、明治42年(1909年)に山陰本線の余部鉄橋の設計も行っている。*3
現在は遊歩道「アプトの道」として改修され、橋の上を徒歩で渡ることができる。詳細は見学要領(工事中)参照。
第三橋梁フォトギャラリーはこちら。

*1 文化庁文化遺産データベースより。ただし、現地案内看板によると、前年の明治25年末に既に竣工していたようにも読める。
*2 用語解説参照。
*3 現地案内看板より。フォトギャラリーに画像あり。
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by h9w457y8i
| 2011-05-28 22:56
| 群馬
|
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