【世界遺産】 スオメンリンナの要塞群  解説

フィンランドの世界遺産スオメンリンナの要塞群 > 概要

スオメンリンナ公式サイト/日本語版パンフレット(PDF 2.2MB)にも解説あり。

スオメンリンナの概要

 軍事関連建造物の歴史において、フィンランドの要塞(スオメンリンナ)は、その時代における一般的な防衛施設の原則と特徴を代表する典型的な例と言える。

 1747年、フィンランドがスウェーデンの一部であった頃、首都ストックホルムの国会は、フィンランドに駐屯する軍隊のための要塞を建設することを決定した。ヘルシンキに隣接する島の一群が要塞の建設用地に選ばれ、建設が始まったのは1748年のことだった。要塞は「スウェーデンの要塞」という意味の「スヴェアボリ(Sveaborg)」と呼ばれた。その目的は、複数の島を連携して防衛することにより、都市周辺の湾への侵入を制御することだった。

 要塞建設は、1748年、30代半ばに砲術士官を経験したスウェーデンの提督、アウグスティ・エーレンスヴァルド(1710〜1772年)の指揮により始まった。彼は、ボーバン(Vauban)の理論をヘルシンキの非常に特徴的な地勢に適用させた。すなわち、ヘルシンキに隣接する島の一群を物理的に結んで防衛チェーンを築き、それらにより街を防備するというものだった。計画の第二段階は遂に実行されることはなかったものの、1772年のエーレンスヴァルド没までには、「スウェーデンの要塞」という意味の「スヴェアボリ(Sveaborg)」と呼ばれた防衛チェーンが構築され、ヘルシンキへの侵入防御の役割を果たした。そして18世紀末までには、建設工事は終了した。

 当時、ロシアはフィンランド湾にクロンシュタットという主要軍事基地を持っていた。そして、それをピョートル大帝から委託されたサンクトペテルブルク防衛に役立てようとし、またバルト海東部に制海権を持つスウェーデンを牽制するための、新しいロシア海軍の母港にしようとしていた。スヴェアボリ建設の目的の一つは、そういったロシアの野心に対抗する一助となることでもあった。

 エーレンスヴァルドが没した時、スヴェアボリは既に要塞としての機能を持っていたが、その後も防衛力強化は続いた。スウェーデン王グスタフ3世(1746〜1792年)も要塞建設の重要性を認識し、要塞の強化は更に進み、名称も「Viapori」に変更された。だが、その地域でのスウェーデンの勢力はその後徐々に弱まり、1808年、難攻不落という評判にも関わらず、要塞は遂にロシア軍に屈することとなった。1855年のクリミア戦争では、英仏軍の砲撃によって要塞は甚大な被害を受けたが、その後も、ロシアは要塞の修復と増設を繰り返した。1918年のフィンランド独立後、名称は最終的に、「フィンランドの要塞」という意味の「スオメンリンナ」に変更された。そして、6kmに渡る防壁と、190に及ぶ建物が保存された。

ロシア軍が設置した大砲と土塁
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 ヘルシンキ沖の島々に建設されたスオメンリンナは、特徴的な歴史的記念碑であり、また世界最大の海防要塞の一つである。その歴史は、フィンランドとバルト海周辺の歴史と密接に絡み合っている。そしてまた、ヘルシンキの初期の成長と繁栄は、スオメンリンナによるところが少なくないとも言えるだろう。


スオメンリンナの歴史

 1747年、スウェーデンの国会は、東部国境の守備を固め、ヘルシンキ郊外の島に要塞を建造することを決定した。当時スウェーデンと同盟関係にあったフランスは、要塞建設が開始されてから10年間、多大な額の融資を行った。

 スヴェアボリ要塞の建設は、18世紀のスウェーデンで最大の建造プロジェクトだった。当時の技術の粋を集め、また最高の専門家が集い、アウグスティ・エーレンスヴァルド中佐の監督と指導の元、要塞は建造された。建設に従事したのは、スウェーデンとフィンランド全土から集められた6500人以上の兵士だった。1772年、エーレンスヴァルドが没したとき、要塞は実質的に使用できる状態になっていた。全体的な計画は、1774年に修正された。

 その後のヨーロッパの勢力関係によって、スヴェアボリの運命は左右されることになった。ナポレオンとアレキサンダー1世の間に取り交わされた条約により勃発した1808年から1809年の戦争で、ロシアはフィンランドを占領した。スヴェアボリはロシアに降伏し、その後110年間、ロシア軍の駐屯地となった。19世紀の中頃には、約4000人のロシア兵が駐屯していた。1855年のクリミア戦争で、英仏の海軍が要塞を砲撃するまで、要塞はスウェーデンの様式を留めていた。その後ロシアによって行われた要塞の修理と近代化によって、破壊された建物は取り壊され、また高さを低く抑えられた。そして土塁による新しい海岸防衛線が新たに建設された。

 第一次世界大戦(1914〜1918年)の前まで、貯蔵基地として使用されたスヴェアボリは、「ピョートル大帝の海防要塞」という防衛計画の一部をなした。このときのスヴェアボリの目的は、タリンと共に、フィンランド湾の入口を防衛し、当時ロシアの首都だったサンクトペテルブルクの安全を保障することだった。1917年、フィンランドがロシアから独立すると、スヴェアボリはフィンランド軍の駐屯地となり、「フィンランドの要塞」という意味の「スオメンリンナ」にその名を変えた。その後、1918年から1919年のフィンランド内戦では、収容所として用いられた。スオメンリンナが軍事施設として最後の役割を果たしたのは、第二次世界大戦中、ヘルシンキ航空監視センターとしてであった。その後、軍の駐屯は1972年まで続いたが、1963年からは、観光と市民の憩いの場としての機能を充実させていった。

(以上、ユネスコ公式サイト内スオメンリンナ解説ページを、管理人が和訳したもの。一部和訳が困難だったため、直訳的な部分がある。)


b0212342_15203746.jpg←スオメンリンナの世界遺産指定区域。(JPEG画像)

中央やや左寄りの赤い実線部分が、世界遺産に登録された島々。

その周囲に広がる赤い破線部分は、バッファーゾーン(緩衝地帯)と呼ばれる区域。

ユネスコ公式サイト内、スオメンリンナ案内ページにPDF版あり。

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by h9w457y8i | 2013-12-20 04:38 | フィンランド | Comments(0)